北海道に本部をおく茶道・大和遠州流

18代家元 蓼沼 紫英

蓼沼紫英(本名 ナヲ)は山形の漢学者・僧侶の娘として生まれ、画家を志し栃木県佐野市において絵を学びつつ、他にも多くの技芸の才を磨いていましたが、とくに茶道を17代家元、加藤一照師より熱心にご教示されました。

明治43年(1910年)弟の住む北海道の留萌に移住したことにより、ここから大和遠州流の新しい軌道が敷かれることになります。当時の留萌地方は、ニシン漁などで特定の季節だけ賑わう港町から脱し、多様な職の人々とその家族が定住する町として態様を整え始めたばかりでしたが、それだけに地域に文化を渇望する雰囲気に満ちていました。

紫英宗匠による掛け軸
紫英宗匠による掛け軸

紫英は移住してすぐ、茶道、華道、絵画、書、謡曲、仕舞、盤景、盆石などと、文化全般にわたって活躍され、その功績により、留萌市文化賞、全国社会教育功労賞、北海道社会福祉協議会賞等を受賞する事となったのです。

なかでも当時、女性のたしなみとされた茶道において紫英が及ぼした影響は絶大なものがあり、こうして留萌・増毛地方に、大和遠州流茶道のゆるぎない基盤ができあがったのです。

そうした実績を背景に、昭和7年(1932年)大和遠州流の18代家元を継承することとなりました。家元はそれを「我が庵は都の北の果てなれど、数寄の友呼ぶ千鳥集めて」と歌に詠んでいます。

19代家元 蓼沼 紫水

幼少の頃から留萌で育った紫英の娘 紫水(本名 トミ)は、地元小学校や留萌高女の教諭として教育に携わりながら茶道の修業に励み、昭和22年(1947年)に19代家元を継承しました。紫水もまた地域の文化活動の功により、のちに留萌市文化賞を受賞します。そのような地域での貢献と共に、紫英・紫水の薫陶を受けた多くの人々が、移住や結婚で全国各地に拡がり、特に北海道で人口の集中している札幌の会員が増えたことが、この時代の大和遠州流の特徴でした。またその事により北海道外の会員との連絡の整備も課題となり、これが20代家元に引き継がれていくことになります。

20代家元 蓼沼 一豊

紫水の姉の子であった一豊(本名 豊)は、蓼沼家の養子となり、昭和62年(1987年)に20代家元を継承しました。この期間に果たされた大きな前進は、19代からの課題を受け止めて、会員が最多の札幌に本部を移し、全国にいる会員を10支部にまとめ、統一規約や役員会・総会等を明確に設定して、一つの組織体として整備したことです。家元の各支部への定期巡回や支部ごとの年間行事等を制度化して、同門者に情報がはっきり伝わるものとなりました。これらの達成が、今日の大和遠州流の基礎となっています。

21代家元 蓼沼 一望

一豊の娘であった一望(本名 吉川 望)は、平成25年(2013年)に蓼沼の姓を名乗ることを許された上で21代家元を継承し、今日に及んでいます。

現家元 略歴

1962(昭和37)年1月4日、20代家元 蓼沼一豊の長女として、札幌に出生。
幼少の頃より、19代家元 蓼沼紫水の薫陶を受ける。
1987(昭和62)年より 20代家元に師事。
学校法人 藤学園 藤女子中学校、高等学校、短期大学(保育科)卒業。
幼稚園教諭、保育士資格、モンテッソーリ教員資格を取得。
茶道修業の傍ら、幼稚園教諭として勤務。
1996(平成8)年、様々な世代への抹茶、煎茶普及のため、子ども連れで寛げる茶房「森の仲間たち」を開く。
2006(平成18)年、副家元ならびに静月会本部副会長に就任。
全国10支部の免許式、茶会ならびに講習に随行、指導。
2013(平成25)年6月、家元 静月菴を継承する。