大和遠州流とは
大和遠州流は茶道遠州流諸派のひとつです。遠州流の祖は、江戸時代初期に、天下一の茶の宗匠とたたえられた小堀遠州公です。
小堀遠州公
小堀遠州公(幼名・作助、のち政一[まさかず])は天正7年(1579年)に近江国坂田郡小堀村に生まれ、大名として豊臣・徳川に仕えた父のあとを継ぎ、多くの幕府奉行職を歴任しました。なかでも作事奉行として数多くの城や庭園の設計・建造に才能を発揮し、日本建築史を方向づけたと言われています。
このような公職とならび、早くから茶道、書道、和歌、美術などに非凡の才をみせ、茶道においては徳川三代将軍家光の師範を務め、千利休-古田織部の正統の流れをひく遠州流の創始者となりました。
日本独自の茶道の歴史は、戦国時代に千利休が書院の茶の華美・儀式偏重の慣わしを徹底的に削ぎ落として「わび茶」を確立したところから始まりますが、利休の弟子・古田織部を師とした遠州公は、そのわび・さびの精神を重んじつつ、より広範で多くの人々がゆったりと時を過ごす場所と環境をつくる事に情熱をそそぎ、茶室の構造、露地の態様、茶道具の取り合わせや掛け軸の選択にいたるまで、茶事に集うお客様へのもてなしを重視し、充実させていきました。やがてこれらは「綺麗さび」と呼ばれて、遠州流茶道を特徴づけることになります。
札幌中島公園内にある重要文化財「八窓庵」は、遠州が建てた茶室のひとつで、1919年に北海道に移築されたものです。
大和遠州流の今
茶道遠州流は小堀家が家元を継承して今日に及んでいますが、ほかに高弟が継いできた流れのひとつとして大和遠州流があります。大和遠州流は遠州公の三男(長男が夭折したため次男とも言われる)政尹の流れを汲み、今日まで家元21代を数えますが、18代 蓼沼紫英の時から、北海道に本部をおく全国組織という、他流派にない独特の存在となっています。